ある日のプロジェクトM

ヨガについて
M(牧野)・・・最初、何か質問とかありませんかね?今日は・・・。 


Q・・・ヨガって色んなヨガがあるんですよね? 
ヨガって何をするんですか? 


M・・・今、アメリカのほうから入って輸入してるヨガが日本で流行っているヨガなんですけど、
基本的にはヨガっていうのは、まずお祈りをします。 
日本でいえばお経をあげるみたいに。 

それと精神的な教えをききます。 
宇宙の真理とか、キリスト教圏でいえば、イエスの教えを読むみたいにインドではヒンドゥの神々の教えを読んだり、そしてその後に身体を整えるのに体操みたいのがあります。 
それがアーサナって呼ばれるんですけど。 

そして次に呼吸法をやります。
呼吸ってのは生きているものにとっては必ず必要なものなので、その呼吸を整える。 

そしてその後にプラティヤハーラといって制感したり、
何か物事に集中したり、意識を一点に集める。

その後が3つあるんですけど瞑想、メディテーションです。 
メディテーションを3段階に分けてます。 
ダラーナ、ディヤーナ、サマディー。 
ダラーナというのは集中。ディヤーナというのは日本で禅といわれるものですね。 
その後のサマディー、悟りって意味ですね。 

瞑想して悟りに到る。悟りの状態はどういうものかというと、
宇宙と自分が一つである、というのがわかる。 

それ全体をヨガって本来は言ってるんですけども、でも今、日本でヨガっていうと3番目にある体操の部分だけがヨガって呼ばれるようになってます。 
心あるマスターの所に行けば他の事も逐次少しずつ教えてもらえると思います。 

だから農業でいえば最初の2つが、どの土地にどの栄養を与えればいいか?って考えて・・・。 
<農業経験者であるQに適した例えを用いる> 


Q・・・土作りですか? 


M・・・うん、土作りですね。で、土作りで土を捏ねたり、実際にやる仕事がこの身体と呼吸ですよね。 
水をいつ入れたらいいんだろう?とか、土を耕すのにいつ耕したらいいんだろうか?とか・・・。 


Q・・・管理? 


M・・・うん、管理みたいなものですね。 
このボディを管理するわけですね。 


Q・・・はぁ〜。 


M・・・そしてその後で稲を育てていきますよね。 
適当な水と適当な太陽があたって。 
雑草が生えれば抜くかもわからないし。 
それ(雑草を抜く)が瞑想で、雑草というのは、だから雑念ですね。 
余分な雑念を抜いていったり。 

で、最後は稲穂がちゃんと実をつける為に瞑想して、
それは宇宙と一体ですって意味がその稲穂になりますかね。 
植物を育てるのによく似てます。 


Q・・・へぇ〜〜。


Q2・・・祈るのは何の神様? 


M・・・自分の神様で。どの神様でもいい。 
一応、ヨガの神様はインドではシヴァ神。 
ヨガの一番大元のスートラってお経はシヴァスートラ。 
シヴァ神が説いたといわれています。 
それで108のポーズがあって。 

でも今、ヨガサンヒターとかヨガ根本経典と呼ばれるものが今、一応原点とされていますけども、その原点の原点があります。大体ヨガってそんな感じです。 


Q・・・それ、全部やるっていったらおかしいですけど、それをみんなに体験しやすくされるっていうのは難しいですよね。 


M・・・あっ、ここでですか。そうですよね。 
やっぱり積み重ねみたいな。農業を始めて1年目には稲穂が育たなければ2年目には、じゃあこれを変えようとか、あるいは冷害の時にはどうしたらいいだとか、日照りの時はどうしたらいいだとか、水瓶を溜めておかなくちゃいけないとか、そういう風に1つ1つの土地が違うので1つ1つ合わせながら進んでいきますね。

だからお湯をかけて3分たったら食えるメシじゃなくて、やっぱり育てなくちゃいけない部分があると思います。 

でもヨガでは特別にやるんじゃなくて日々の生活がヨガだっていう風に考えてますね。 
例えば、ご飯を食べる事もそうだし、作る事もそうだし、風呂に入る事も、便所に行って糞するのもみんなヨガ。 


Q・・・僕がいつもやってるやつ? 


M・・・そうです、そうです。いつもやってるんです。 
だから糞するのだって毎日糞してりゃ健康だけど、3日にいっぺんとか5日にいっぺんとかじゃ不健康ですよね。 
10日も出なくちゃおかしいですよね。 
たぶんそんなことないと思うんですけど。 


Q・・・今は薬、飲んでるから。。。 


M・・・ああ、薬飲んでると色々ありますよね。 
ようするに農薬まき過ぎた米みたいなもんですよね。 


Q・・・あんま無茶な事いわんで下さいよ。 
<一同、笑い> 


M・・・でも西洋の薬であろうが、漢方薬であろうが両方とも大いなる叡智からの贈り物ですから間違って使わなければどちらも人類が叡智から学び取ったものですから。 
神の示唆によって。 


Q・・・やさしいですね〜。 


M・・・いやいや、そう、だから逆に言えば、これは効くんだって飲まないと。 


Q・・・いや、牧野さんが優しいんですねって今言ったの。 


M・・・いやいや、神が優しいんですよ。 
そのほうがいいと思いますよ。僕もだから飲みますよ。 
具合が悪い時は、風邪薬でもアスピリンでも、 
それは効くようにって思って飲みます。 
毒だ毒だって思って飲んだんじゃ本当に身体に毒になっちゃいますからね。 

イエスの言葉に『口から入るものは私達を汚しません。口から出るものが私達を汚します』って言葉がありますよね。 

口から入るものは私達を汚す事は無い。 
でも口から出るもの、『出るもの』って、だから言葉ですよね。たぶんね。 

お前はバカだ!って、そいいう言葉が我々を汚す。 
口から入るものは汚すものは1つもありません。 

彼が生きている時代だって薬はあったはずだし、肉でも食べただろうし、お酒も飲んだでしょう。 
でも口から入るものは一切我々を汚すものは1つもありません。マタイか何かに確か出てますよね。 

ヒンドゥでは牛とか肉を食べないのは、1つは神様の乗り物っていう考えがあるんでね。 
牛の肉は特に食べないですね。 
でも鶏肉は神様の乗り物じゃないから食べますね。 
だから肉を食べない訳じゃないんですね。 
菜食主義って。 


Q・・・勝手ですね〜。 


M・・・うん、みんなが、世界中が勝手ですね。 
まあ、菜食が必ずしもいいとは思ってないですけども、我々の身体は特に農耕民族っていうのは菜食に合っている身体をしていると思うんでね。 
腸のつくり、骨のつくり、中にある消化酵素、その他諸々が菜食に合ってると思います。 
<牧野自身は、体質的には肉を欲しないそうだが菜食にこだわっていないので口にすることもある> 

ヨガは大体そんな感じですかね。 
あとで少しだけ身体を動かしてエネルギーセンターを活性化していくのを少しやろうと思ってます。 

今、農業って機械ですか?  


Q・・・ええ、まあそうですね。 


M・・・やっぱり整備されてるんですか?大きく。。。 


Q・・・はい、この前やってましたんで。 


M・・・昔はねぇ、手じゃないと植えられない所もありましてねぇ、三角になっていて。
そういう所は無い? 


Q・・・ああ、補植をね。。。機械で出来なかった所は。 


M・・・やっぱり今はもう全部整備されてほとんど機械? 


Q・・・そうですねぇ。機械も音がいいですよ。 
ジーッと聞いてるとトントントントンいうて。 


M・・・はぁ、機械の音ねぇ。。。うん。 


Q・・・ディーゼルエンジンの音なんてとってもいいですよ。ジーッと聞いてると本当にリズミカルでね。 


M・・・それね、ナーダヨガっていうんです。 
音を聞いて、自分がサマディーに入っていくのをナーダヨガっていって、ナーダヨガっていうのは自然の音ばかりじゃなくって、そういう風に機械の音、飛行機の飛ぶ音、そういうのをちゃんと聞いて、その音が自分の身体に沁みてくるんですよ。 


Q・・・そう! 


M・・・ね、そうやって沁みてくるのがナーダヨガっていって、それが『宇宙と自分が一体である』。。。 

人間が作ったこんなのは天然じゃないから真理じゃない、と思ったら大間違いで、そこ等へん走ってるダンプであろうが、車であろうが、飛行機であろうが、ディーゼル機関車であろうが、みんな全部真理があらわれている。 

そこから出る音は神の音だから、それはちゃんと沁みてくるんだよね。身体も脳細胞も。 
だからとてもリラックスしたり、とても何か特別な意識になったり。雑踏の中では瞑想出来ない、なんてのはウソで、ゴ〜ッってこの上を電車が通っていようが、瞑想しようと思ったら
その音ですら真理の音になる。 
ナーダヨガっていってヨガの中ではそういう風に呼ばれてますね。 


Q・・・どの先生もそんな事を知っており言われるわけですか?ヨガにおいては。 


M・・・たぶんインドで。。。
お金儲けでやってない人はたぶん知ってます。 
ちゃんとヨガをやればそういう事を知っているはずです。 


    〜中略〜 


知ってる範囲では。知らないのは当然答えられないですけど、知ってる範囲では。。。 
聞かれると普段忘れている事でも、どこからかこう湧き上がってくるんで。。。 


Q・・・ということは私ヨガをしてるってことですね、ほんなら。 


M・・・そうですね。うんうん。バクティヨガ、 
カルマヨガって呼ばれるものを普段やってらっしゃるって事ですね。 


Q・・・全部、何事も楽しいんです。 


M・・・そりゃグッドですよ。 
そういう人はあらためてヨガやらなくてもいいです。 


Q・・・はぁ、嬉しい事を聞いた。 
今も聞いていると私は、そうなっちゃってるんですよ。 
<一同笑い> 


M・・・あれでしょ、稲とかお米さわると愛しいでしょ?じゃあ。 


Q・・・そう、だから、ええ。入院してからね、食事を作らなきゃいけなくなって料理を作ることもとっても楽しいし、薬を飲まなきゃいけなくて薬を入れて持ってくるのも楽しいんです。(薬を)わけることが楽しいんです。 


M・・・それが内なる喜びですね。 
どこか特別な体験をしたり、神秘的な体験をするのが喜びじゃなくて、それは一過性のもので。 


Q・・・それはインド行ってからだとは思っているんですけどね。
それにしてもね、不思議ですね。 ヨガと繋がっているんですね。 


M・・・うん、うん。 


Q・・・ありがとうございます。 


M・・・いえ、いえ。 


Q・・・あらためて気付かせていただいて。。。 
ヨガって何か特別な事するんかなと思ってたんですけど、そんな事ないんですね。 


M・・・そんな事ないですね。何も特別な事ないですね(笑)むしろ特別じゃない。 


僕の目からみたら、社会の中で生きている人達が特別な事をやってて、ヨガの道で生きるのはごく当たり前に生きます。 
自然に当たり前に生きてる。 

社会の中で一流の人になろうとか、一人前の人になろうとか、いっぱしの人になろうとか、社会から認められようとか、社会に貢献しようって風に。 

それの方が凄い特別に思います。 
そういう態度で生きている人達が。 
それで特別な事やってるから精神的に病んじゃうんじゃないかと思います。 

学校行ったら30人のクラスで全員が1番になろうって超特別だよね。40人いたら1位から40番までなくちゃおかしいのに全員が1位になろうとか、全員が百点とろうとか、全員が総理大臣になろうって、そっちのほうが特別に感じますね。 

お米を作る人もいなければいけないし、土地の事をよく知っている人もいなくちゃいけないし、産婆さんもいれば、お医者さんもいるし、色んなものがあるのが自然で、全員が1等賞になろうっていうほうが特別な事をやっているように感じますね。 

だから逆に言えば、生まれた時から本来は特別って事ですね。 

生まれた時から一人一人が特別。 
その特別なのに、その上に人間が考えた何か特別な事をやろうとするんであちこちに痛みが来る様な気がしますね。身体もそうだし、心も。
見ることって?
M:自己紹介いらないね(笑) <おなじみの面子> 
   
じゃ、何をやりましょうか? 

何か今、出てこない感じだな。話すとたぶん出てくると思うんで。 
疑問とか質問とか無いですか?最近変わった出来事とか。 


C:今日は、私・・・まず、西葛西駅まで行ってバス乗ったところで、 
そういえば道が混んでいたらやばいなぁって乗ってたら、 
バスが通常に走ってるんですけど。 

うちのそばを通って『あ!そういえばここにもバス停があったんだ』って思い出して 
駅まで行かなくても・・・って。 

どうしてそのこと思い出さなかったのかなぁ?って思って。 
クソ〜ッ!とか思って(笑)みんな待ってたら悪いなぁ、なんて思いながら、 
でも何でこのクソーッ!っていうのは一体どこから来るんだろう?とか思って(笑) 

淡々とただ、ああ間に合わなかったな。とただ思っているだけじゃなくて、 
そういう変な思いもあることが、まあパターンか何か知らないけれど、 
それってそんな悪いことでもないかな。とか思って、思いつつ●●<不明>をしながら、 
10時丁度に着きました(笑) 

Yちゃんにメール打ったんですけども。10分遅れるって。 
たぶん見てなさそうだわ(笑) 


Y:届いてないよ。 


C:え、ほんとに? 


Y:うん、ほんとに届いてないよ。 


M:どっか地下にいたんじゃない? 


C:いえ。 


Y:お姉さんにまた打ったんじゃない? 


M:違うとこ? 


C:Y子という名前のアドレスが一杯あって、T本という名前も一杯あって。。。 
違うとこに? <一同、爆笑> 


Y:着いてないよ。<携帯メールを再確認する> 


C:マジ? ヤバ!(笑)違うとこ・・・。 


Y:アタシ、だって電車に乗ってる時間が長いからメールチェックして 
Hちゃんに悪いなぁって打ってたりしたじゃない。 
<この日の朝、Yさんは亀戸と間違えて亀有に向かった> 

降りる寸前に見ても、今も無い。<Cさんからのメール> 

またお姉さんに打ったんじゃないですか? 


C:。。。ということで(笑)ぼんやり過ごしてますけども。 
最近あの〜。見るとか、向き合うとか、洞察とか、委ねるっていう事と、 
見るって言う事に対しての・・・。 

見なきゃいけないって言う事では無いんでしょうけれども、 
ただ、ここにいるっていう事と、見るって事と・・・ 
どういう風に考えたらいいのかなぁ?っていう状況なんだけども。 


M:見る!見る!って言うと、見なくてはいけないってくっついちゃうじゃない? 
そしたらさぁ、もう見てないんだよ。 
見ようとしたら見えないからさ。 
我々はさぁ、あのぉ、そういや俺の事、見ようとしなくても見えるじゃん? 


C:はい。 


M:みんなさ、見よう!見よう!としなきゃ俺が見えない訳じゃなくて、 
見ようとしなくても見えるじゃん。 
だから、本当は心もそういう状態になってる。 

見ようとしない、気つ゛こうとしないでも気つ゛いてる状態なんだけど、 
最初のうちは頭の中にさ、自分の作り出した想念が一杯あるから、 
それが膜を作って、本当は見えるんだけど見えないから、 
これだけはどかすって事がどうしても必要ね。 

そのどかすっていうのをどうやってどかすかっていったら、 
これをどかそうとしたら新しい想念がこうやってくっつく。 
だからここに邪魔ものがあるんだって見えることが一番最初。 
この邪魔ものをこうやったら見えるじゃん。<どかす手振り> 

我々は、だからその邪魔している想念も見ようとしなくても 
その想念に気つ゛ける、あるいは見える。 
で、初めてその想念の裏側がこうやって自然に・・・。 

だからバス停で待ってたでしょ? 
そしたら何でこっちのバス停に気が付かなかったんだろう?って思うわけじゃん。 
その後にそういう風な思いはどこから出てくるんだろう? 
って考えなくてもそうやって出てくるじゃん。 

その様に、それは自動的に起こるから、見ようとか見なくちゃっていう事は一切無い。 
ただ一番最初に『見よう』って一言が無いとダメだね。 
見るとか、見ようとか、気つ゛くって最初の一言だけ必要で後は全部いらない。 


C:最初の一言? 


M:最初の一言だけ言う。それねぇ、凄い簡単な事でね。 
う〜んとね、例えばね、こうやって武道なんかで良くやるんだけどさ、 
腕をさ、人に曲げてもらう。 
そうすると曲がるのに抵抗するわけ。 
そうすると幾ら抵抗してもジワジワジワッと曲がっちゃう。 

でも抵抗をやめた途端にこの手が曲がんなくなる。 
抵抗してる限りはこうやって曲がっちゃう。 
後で実験してみるか? 

それはね、自分でもって体感したらわかるよ。 
体感したらこうやって曲がるのを曲げられてたまるか!って抵抗したら、 
ここが筋肉痛を起こしながらギュギュギュってやったら曲げられちゃったりするのさ。 

でもそれを抵抗をやめると曲がらない。 
これを曲げられてたまるか!っていう抵抗をやめると、これが曲げられない。 

我々、抵抗するから見えなくなっちゃう。 
だから一番最初に、曲がらないと一言だけ言っておけば曲がらない。 
後で身体で体感すると、たぶんそういうのがね。 
今、頭で聞いているじゃない? 


C:あたし自身ていうのも、そういわれてみると、その疑問が浮かんだのが、 
ある人から 『あなた見なさい!見ないじゃん』 って言われて、 
『見たくないんだよっ!』っていう。 

〜後 割愛〜 
見るものは見られるもの
Q:善悪は相対的なものと頭ではわかるんですが。 

外側では普通の顔をしているが内側では人を裁きまくっている自分がいて 
そのギャップに苦しむ。 

どうしたらいいのか? 


M:どうしたらいいのか? そうですね、でもどんな人も自分が認められたいって 必ず思っていると思うんですけどね。どんな人も、誰もが、ここにいる誰もが。 


自分が認められたいって。あるいは自分が愛されたいって。どっちでも同じですね。 

愛されたいっていうのも認められたいっていうのも意味は同じですね。 

認めて欲しいって。そういう気持ちが無いって人はいないと思うんです。 


で、自分が認めて欲しい、認められた〜い!愛された〜い!って思ってて、 
自分自身が認められてるって思えなかったり、愛されてるって思えない時に 
腹が立ったり、或いはそんな自分が嫌んなっちゃったりってことが多い。 


でも、1つは誰も彼もがそうやって思ってて、 
そしてそうやって思ってるから必ずジャッジしますよ。人を。 
   
こいつは俺より綺麗だ!とか俺より能力がある!とか、 
俺をないがしろにして他の奴に相談に乗って!とか、 
そういうことが起こったらその度にイライラしたり、 
あ〜、なんか自分が認めて貰えない、と思った瞬間に 
なんか心の中で葛藤が起きてその人を裁く。 
    

そういうことが誰でも起こっている。 


自分ていう存在がある限りは誰でも起こる。それが当たり前。 
 
  
で、何が問題かっていったら、 
『それが悪いことです。だから変えなくちゃいけません。』 
っていうのが問題で、別に裁いたら裁いただけです。 
   
こいつは嫌な奴だ!って言ってるだけ。 
   
嫌な奴は嫌な奴なんだから、嫌な奴ですって思うじゃん。 
   
別にそれはOKじゃん。 
   
そういう風に思っちゃいけないんだとか、或いはそういう風に思って、 
こいつを何とかしてやれとかこの気持ちをどうにかしよう! 
って思った時に問題が起こる。 



Q:そうすると、もう1人の自分が自分を見てるっていうじゃないですか。 
  もう1人の自分が自分を見てるって感じですか? 


M:うぅん。あのね、 
『見る』 っていうことに対して誤解されてる人達が凄く多いと思うんだけど。 
   

自分がいますよね、で、もう1人の自分がこうやって(身振り手振りで説明する) 
自分を観察しますよね。そうするとこの 『観察している、この自分』 てのが、 
やっぱり 『見られている自分』 なんですよ。 

わかります? 


たぶん、余りそれが上手く理解されていないのは見る自分がいて、 
これを観察していたらそれをやり流せるっていう風にみんな思ってるんだけど、 
そんなことはなくて、この嫌な自分を見てる自分は、嫌な自分なんですよ。元々。 
 
  
『嫌な自分』 と 『見てる自分』 は一体で、セパレートに見えるだけで実際は、 
見てる自分も、その見られてる自分も嫌な奴なんだよ。 
  
 
見てる自分が、この嫌な奴と同じなの。 

  

Q:じゃ、それって自分が自分に騙されていると? 


M:うん、そうだね。そうやって自分で自分を騙してる。 
   

だから見てる自分が見られてる自分に、『こいつは怒りっぽい』とか 
『根暗だ!根暗じゃ無くしよう!』 って言ってるそのこいつが根暗なの。 
   

だから幾らこうやって見てても直らない。 
 

見れば見る程、遠くなれば遠くなる程この根暗を直そうとして、 
そして言ってる自分が根暗だって言う事をすっかり忘れて、 
そしてここにエネルギーを与えるから、こっち側の根暗の見てる方が 
どんどん大きくなって全然直んないです。 



Q:自分で自分を裁いているのが苦しいってこと? 


M:そういうことになるよね。 

だからその裁かれてる自分と裁いてる自分は一緒だから、 
裁いてる自分が正しくて裁かれてる自分は正しくない自分だって思っている。 
   

その裁かれてる自分も裁いている自分も実際は一緒のもの。 
自分はいない
Q:先程、牧野さんの仰った『自分がなくなる』っていうのは? 


M:自分がなくなるっていうのは、う〜んとね〜・・・ 
   
説明をすると、どんな説明をしてもさっきの説明から・・・。 
   
まぁ、どんな説明でも出来るんだけど・・・。 
   
この 『見てる自分』 も 『見られてる自分』 もなくなる。 
   
そういうことがなくなるってこと。 



Q:じゃあ何を見てるんですか? 


M:そういうことがないです。 
   
もし、見ているんだったら、目が見ています。 
   
コップを見た時に目が見ています。 



Q:あの〜、不快な感情は出てきますよね? 
   
それを見ている何かが? 


M:そういうの、ないです。 
   
不快な感情があったら不快な感情があるだけです。 
   
怒りがあるだけ。(怒りが起これば) 



Q:それ、怒りの感情とかって誰が? 


M:いないです。 
   
怒ってる人もいなければ、怒りを見てる人もいない。 
   
怒りがそこにあるだけ。 
   
花が咲いてたら、花が咲いてるだけ。 
   
それはね、説明 幾ら聞いてもわかんないと思う。 
   
体感しないと。 



Q:●●(意味?)を付けないってことですか? 


M:そういうことでもないんだけど、それは体感しないと多分わかんない。 
   
もし説明すれば、ありのままの世界がそこにある。 



Q:じゃあ、あの、怒りとか、あと肉体的に痛みを感じる? 


M:コイツ(肉体)が痛いって感じれば、痛いっていうのがここにあるだけ。 
   
もし僕が手を切られてポロンと落ちたら痛いでしょ。 
   
そしたらここに痛いっていうのがあるだけ。 
   
痛い人はいない。 



Q:じゃあ、不幸とか苦しみがないということは? 


M:外側から、もし皆が観察したら、あ、こいつ苦しんでるとか、
この人はこうだとか思うかもわかんないけど苦しみを感じる人とか不幸だと感じる人はいないです。 
   
だから何が不幸とか何が苦しみだとかないです。そういうのは。 

    ≪一同、理解不能であっけにとられている様子≫ 

ま、まあ(笑)それは皆さん自分があるうちはその自分がないのを幾ら聞いても 想像上でしかないから、本当に自分がないっていうのを体験したら、それは、あ、言ってる事はこういう事だってのが。 



Q:じゃあ、もしイエス・キリストが悟っていたとして、悟っていた人だったら 
磔になった時っていうのは苦しんでいなかった? 


M:彼の肉体は苦しんでいるけど、 彼自身はそこに、イエス・キリストっていう人はいないから、苦しんではないです。 



Q:不幸ではない? 


M:不幸ではないです。むしろ彼は喜びの中に散っていったんだと思いますよ。 
   
だから彼の言葉には 『この人達は自分がしている事の罪深さを知らないのです。 
だからどうぞ赦して下さい』 と。 
   
自分を欺いた、殺す人に対してそういう風にいう思いが心の底から湧いてくる訳だよね。 
   
でも、自分があったら 『ふざけた奴だ、コイツ!俺は皆の為に、 
自由の為に働いたのに何だコイツ!』 って思う訳じゃん。 
   
そういう思いは湧かないってこと。 
   
だから身体を呈して無条件の愛ってのを彼は示して死んでいった訳だよね。 
   
まぁ消えていったっていうかね。 

無条件の愛っていうのは殺す人が来ても殺す人の為に心の底から祈ることが出来る。 
   
彼がそういう質だったからそうだった。 
   
そういう質じゃない人が悟ったらそうはならない。 
   
彼は無条件の愛っていうのを世に表現する質を持って生まれてきたから、 
どんな目に遭っても心の底からそういうものが出てくる。 
   
ブッダはそうじゃないから、そういうものは出てこないで、 
むしろ分析的に見るって質を備えているから叡智の人だよね。 
   
何か色んなものを色んな角度から見たり、色んな説明をしたり。 
   
それはそういう質で生まれてきたから。 
   
でも同じように慈悲ってことで無条件の愛を持ってますけども。 
   
それが全面的に出るんじゃなくて知恵の方が出てる人だったから 
色んなことを色んな例え話に残したり、或いは自分が亡くなる前に、 
自分がある人はどうやって生きたらいいかとかすらも方便にしたり、 
方向性を示したりそういうことを残していった。 

だから自分がなくなったら自分の質のまんま生きるしかないから、 
自分の質っていうか、この質で生きるしかないから。 
   
この質で出来る事をやって、この質が100%出て行く。 



Q:その質っていうのはワンネスなんですかね?つながってる? 


M:ん〜ん、例えばね、こうやって手がありますよね。 
   
小指は小指の性質があるでしょ?親指がなかったらこの4本で握れないとかさ。 
   
親指と人差し指があったら色んなものが握れるが、 
この小指と薬指がないと握るのに凄い握力が減ります。 
   
この2本があるおかげで全体の握力が凄い増します。 
   
そういう風に役割があります。 
   
小指いらない訳じゃなくて、小指なかったら、これチョキンってやったら 
握力低下しちゃいます。伸ばしてこれ握ったらすぐわかります。 
   
こうやってグッと握るのと、伸ばして握るのと握力が全然違う。 

うん、そういう風に、もし自分が小指に生まれたのに小指はやだ! 
って言っても、もう小指なんだからしょうがない。 
   
だからこれがブッダだったとして、これがイエスだったとしたら、 
親指に生まれたのがイエスなんだから、俺は親指のままに生きる 
って決心して生きるのがイエスでありブッダ。 
   
それが悟った人、だからこの質を100%。 


でも自分があるうちは他人に成りたいんです。 
   

自分がイエスになりたい、自分がブッダに、自分がマホメットに、 
自分が何か素晴らしい他の人に。 
   

だから自分を生きていない。 
   
だから苦しいんです。 
マインドについて
M: マインドの話をしたいと思います。 


理解して欲しいことは、話っていうのは『これです』って指す指みたいなもので、 
言葉じゃなくてそのいわんとする所を読み取って貰えたらいいなと思います。 


言葉っていうのはあくまでもそのものを・・・ 


『畳』っていうのはこれですから(畳を示す)、『これです』って言ったときには 
これを見ないとわかんないじゃないですか。 



でも『これです』って言ってるこの指を幾ら見ていても分析しても駄目なので、 
そのもの自体、指を指した先にあるそのもの自体が見て貰えるように 
僕の方も願いながらお話しますけども、皆さんもその指、その言葉じゃなくて 
言葉の先にあるものが何だろう?という意識で聴いていただけたらなと思います。 



まず僕達が生まれて1才、2才の時って、たぶん記憶がほとんど無いですよね。 


どこか3才位から記憶が出て来て、もう少し経つと自分という意識が出てくるので 
ここから何か自分いうのが始まる。 



ここまでいいですか? 



そしてその1、2才の頃って、じゃあ人生が無かったか?っていったら 
実は赤ん坊を見たら何となく弱々しいのに生き生きと輝いていると思いませんか? 


彼らはまだマインドっていうのが、、、考えがほとんど無いかゼロ 

この考えが無い状態の生き生きと生きている状態があるってことは 
我々の中にそれがあるってことです。 


『今ここ・あるがまま教』ってありますよね。『今ここです』とか 
『あるがままです』って。それ(考えが無い状態)が本来のあるがままです。 



そして、その通りに生きていたら自分の通りに生きてるんだけど、 
そこから自分という意識が生まれた途端、世界と分離します。 

自分がいて、母親がいる、父親がいる。或いは姉がいる、兄がいる。 

そしてそれ(自分という意識)が強くなってきた時に 
内側の生まれたままの『ある』という自分から・・・。 



例えば、駆けっこが遅い。『遅いね』って言われる自分。 

或いは『弱虫だ』って言われる自分とか、『泣き虫だ』って言われたり、 
或いは勉強が出来なけりゃ『もっと出来る様に努力しないと駄目ですよ』って言われたり、 
或いはいいことも一杯言われます。 


『あなたこれが才能あるからこれをやりなさい』 

そうすると、ここにこうやって新たな自分が出てきます。 

この新たな自分が、多くは良い部分より駄目なほうが多くて、 
そして『自分は駄目なんだ』 だから駄目な所を改善して、 
よい人かいっぱしの人か何か素敵な人になろうとします。 

っていうことはこの『駄目な自分』っていう中から社会をこうやって見てますので・・・。 


これ作られたものですよね? 


それが我々のこの頭の考えている部分で今、顕在意識でやっている自分。 


これを幾ら相手にしても架空で作り出したものだから 
これ元々無いです。この自分は。何か作り出している。 


これ幾ら相手にしても駄目です。 



でもこれは人類がず〜っともう何千年もかけて作り出してきたものだから、
まるでリアル、あるように感じます。 


でもこれ無いです。 



『自分が無い』ってこれが無いことです。 



わかります?自分が無い状態。 



そこの本に『自分があるから苦しみです』って書いてあります。 
この作られたものは勝手に作ったものだから無いです。 

でもまるでそれがあるように思っています。 


あるように思うからこれが輪廻します。 

これが都合のいいように宗教でさえ利用します。 

人生も解釈します。 



これが無かったら本当にあるがままだから 
あるがままの時には、あるがままだとは思わない。 


ここの作られたものが何か? 


自分は、どんなものが作られて、どんなものが中身にあって 
どれが『これがあるんだ!』という風に思ってるか? 


この正体を暴かない限りは自分自身を生きられない。 


これを相手にしていても無いものを相手にしているのだから 
無いものを変えようとしても全然変わらないと言う事。 


無いものを相手にしても・・・。 



それでこいつが無いんだということを 
まず見抜かなくちゃいけない。 


或いはその前に、こいつは作られたものだというのを 
見抜かなくてはいけない。 


でも我々は、この中でしか今はたぶん生活していない。 

これがあるっていうように考えてる。 

多くは『駄目だ』って思ってる。 

その駄目だって思いにより自分自身で生きられなくなっている。 


自分自身で生きようという心をなくし 
自分自身で生きられない状態を作り出していく。 



これを作り出していくと2通り反応があります 



1つは開き直って『どうせ俺は駄目なんだ』 


『いいじゃねえか、駄目なままでいい』 


これはあるがままじゃなくて 
『駄目なまんま。作られた駄目なまんま』 


それを『これがあるがままだ』と生きた所で苦しいばっかり 


だから今の『あるがまま教』っていうのは 
これのあるがままだから苦しいばっかり。 


何も変わんないです。 


※『あるがまま教』・・・あるがままという言葉をを勘違いして 
軽々しく口にしている人々を称して、こう呼んでいる。 



もう1つは、何とか修行して悟りをひらいて、 
何か素晴らしく変えようとチェンジさせる。 


これ架空のものだからチェンジした先には、 
また架空のものが出来るわけだからこれは悟りは無いです。 


そりゃ超能力はあるかもしれない。 

そういう変化は・・・ 

貧乏人が金持ちになるような・・・ 



ここを全て相手にしないということです。 


その為には先ほど話したように『自分自身を生きる』 


自分自身を生きるというのは、 
まず自分がどんな架空を作り出しているのか? 


何が自分の価値観になって 
何が自分を苦しめたり何に自分が反応するのか? 

気が付くしかない。 



『じゃ、それは見てたらいいんですか?』っていったら、 
それはこの中でこいつが見ていたら変わらないので。 


だから、あるってことを認識するってことしか出来ない。 


それが出来るか出来ないかの問題です。 
その人にとって。 



『修行したら結局これを変えてるだけ』 

これ幾らやっても・・・。 


だから『ノーサダナ』



でも我々はこの中で生きているから 
いきなり『これが無いです』ってそれは無理なので、 
まずこれがあるってことがわからない限りは駄目なんです。 


あるってことがわかっているということがまず第一歩です。 


そこに今やった身体を感じること(ヨーガ)や様々なワークが
 加えられることによってこれを認識する事が出来る。 



何も起こらないという人は 
『ここ』にしがみつきたいから。 



悟りたいんじゃなくて、これがさ、リアルになりたい、 
本物のままでいたい。 

そうすると、もうここにしがみついてるんで 
チェンジすることを拒否しちゃう。 


だから何回も何回も経験する中で、ある時初めて 
『あれ?もしかしたらこれは本当に自分が勝手に作りあげたものだ。作り出したものだ』 
とわかりだしたら何かがチェンジする。チェンジさせようと思っても無理。 



ブッダやイエスでさえ人の心をチェンジさせるのは 
凄い難しかったです。だから裏切られたりしますよね。 



唯一出来るのは自分。 


今生きている、この自分自身だと思っている自分自身が 
自分自身で作り出したものだから 

『これがそうなんだ、マーヤなんだ』と気が付いたら 
これが無い世界は、じゃあどうなるか?といったら 
有る世界と一緒なのにマーヤじゃなくなるわけです。 

※架空のものをインドではマーヤっていってます。 



ここがパラドックスですかね。 
無いっていうのがわかったらパラドックスじゃないんだけど 
無いのを有るって思っているうちは何をやってもパラドックス。 


だから何処に行って、何を聞いて、何を求めて 
どんな修行をしても、結局その無いって覚りが起こるまでは 
ずーっと何処かに苦しみが。 



それで突発的にこれが無い状態を事故の様に垣間見る人がいます。 

真理の一瞥。何か事故とか、戦争かもわかんないし、病気かもわかんないし、 
何かずーっと哲学的な思考が行き詰まってるのかもわかんないし、 
でもそれは突発的だからまた元に戻る。 



そうするとその突発的な体験をすると、今度それをずーっと求め続けます。 


僕、ずーっと。小学校の時、突発的にそれをうけたんで 
ずーっと20才まで気が狂うほど求め続けました。 


でも本当に徹底的に何かわかるまでは、そう、だから 
それが結晶化した途端にパーン!と割れて本当に何かが。 
(チェンジした) 


でも無くなってもこんなもの(笑) 
(自分のことを指差す) 

やっぱりワサナが残るからね。 

自分のこの身体についている癖とか。 

生きる方向性の癖とか、そういう癖は残っています。 

みんな悟っていようが悟っていまいが、 
これあると思って生きていようが無いと知って生きていようが 
みんな別に上下は無い。みんな同じだから。 


偉い人でも何でも、その人の前では礼拝はするかもしれないし 
能力がある人には敬意は表しますよ。 

でもみんな変わらない。 



僕は真理を探究するのは、みんなに教えるんじゃなくて 
みんなで一緒に進めたらいいなと。 

そして僕が知っているものをただ提供出来たらいい。 

それが役に立てばいいなと思ってます。 
痛みについて
Q: 私、一応病気抱えてて、夜なんか凄い痛くなっちゃう時とかあるんですよ。 
それで『ああ、もう助けて〜!』って言うんだけど、全然効き目が無いんですね。 
凄く文句は言うんですけどね。 

で、悟った場合に痛みっていうのは・・・? 

ほら、よく感情を見つめていくと、その感情は無くなりますよ、 みたいなこと言うじゃないですか。 
痛みっていうのは、どういう風になっていくんですか? 

ほらSMじゃないけど、痛みでも『あ〜気持ちいい〜!』みたいな そういう世界になるのか(笑)それとも見てても平気みたいに? 

でも今のところ、痛い痛い!って思ってて全然平気にはならない。 



M: この世界っていうのは、カルマブーミーといって、まあ物質界ですが 
そこに起こった痛みは悟っても何しても消えないと思います。 

例えば覚者が転んで足を怪我したとしても、 
或いはご馳走を一杯食べて胃潰瘍になるとか、 
それはブッダでもイエスでも他の聖者と言われる人達でも同じだと思いますね。 

ただし何が違うかというと、そこに、その痛みにストーリーを付けないってことです。 

我々は大体、例えば胃が痛いと、ただの潰瘍か食べすぎで痛いかもわからないけどそこに 『ガンになったらいけない』とか『ガンになったら今度は切ったら復活しないといけない』とか 『切ったら皆と温泉に行けない』とか色んなストーリーが付いてきます。 

そうすると痛みを感じてないで、そこに、痛みに付随した痛みを自分でストーリー付けして、 そのストーリーが自分を苦しめる。 

そういうのは一切無くなります。だから、この痛いっていうのだけがある。 
で、痛いっていうのが解ると、実は人間の細胞一つ一つが免疫能力持ってるから早く本当は治る。 
だけど我々はそこにストーリーを一杯くっつけちゃうから、 
この免疫能力が高くなるどころかむしろ下がってしまう。 
だから病気が病気を呼んでいる。 

ただし、それでも、もしかしたら悪いものが出る為に悪くなっている人もいる。 
でもそれはそのように見えるだけで痛み自体が、痛かったら嫌だとか、苦しいとか痛いっていうかもわからないけど、そこにストーリーが付いてないんで痛みを体験するってことが起こる。 

我々は痛みを体験しないで痛みのストーリーからくる苦しみを体験しちゃってる。 
余計、元の病気の原因がちゃんと治す方に働かない、てことが見てると多いです。 

だから自分の免疫能力を上げるのには、中国でもチベットでも日本でも、 
或いはインドでもそうですけど身体を動かしたり、呼吸を整えたり、心を整える。 
そういうのを全部まとめたのがインドではヨガって呼ばれてますけど。 

病気の原因は心にもあるけど、身体自体にもあります。 
身体自体の細胞自体が、その状態を保っていない時に病気になるから 
心が介入してもっと保てなくなると、これが復活できない。 

でも心の介入(ストーリー付け)がなくなると、これは自然に治るように働く。 
色々な免疫能力が上がるのは自分達の心の持ち方が関連している。 

脳腫瘍とか内臓系のガンとか、アメリカの方では研究が進んでいるらしくて、 
リラックスしたり心を安定させることによって奇跡って呼ばれるような治り方をする人もいるし、 それでもやっぱり治らない人もいます。 

でも少なくとも、それを受け入れることが出来るようになると、 
やはり人間、自分の中の人生が変わります。 

例えば100年ダラダラ生きるのと、20年しか生きられないけど自分の生きたいようにやって やりたいことやって、20年だけど満足だって死んでいくんだったら・・・。 
ダラダラ100年生きてても意味無いと思う。 

例えば皆の命が1000年、2000年、3000年あったとしても、 
こんな自分は嫌だ、こんな社会は嫌だって生きても何か嫌だと思わない? 
50年の人生でも、何か自分の思い通りに生きられたらそのほうがいいと思いません? 

どうですか?やでしょ?心の苦しみが1000年・・・(笑) 
長生きする価値が無いよね。 


こないだ、Tさんからこんなメールが来ました。 

『人生って楽しい事やってると凄い時間が短いです。 
でもつまんない事やってるとすっごい長いです。 
そうするとこの時計の時間は何でしょうか? 
そういう時間は無いんじゃないか?』 


我々はこの物質界、外の世界では法律とか時間とかあるけど 
内側の世界では実際は時間は無いよね。 
我々が40年とか、30年とか、20年しか生きてない人もいるけど、50年生きたとすんじゃない? 

振り返ったらさ、50年ってあっという間に過ぎてますよ。 
これから50年、ローンを返済していくんだって言ったら凄い長いかもわかんないけど、 50年生きてきて振り返ったら、なんかあっという間だと。 
苦しかろうが。楽しかろうが。 

だからきっと我々の概念の中にある時間と、外の時間ではまるっきり別のもの。 
勿論、時間が違うってことは空間も違うってことですよね。 
自分の中にある拡がる室内と、外に広がってる室内とは全然別のもの。 



えーと、『悟り』って言葉が出たんでついでに言っておくけど、 
我々は何か悟りっていうのが、何かとてつもなく凄い事が起きるって思ってる人が多い。 
そして色々、本に目を通すと、何かとてつもない人になるみたいなさ。 
凄い偉大な体験をして、とてつもなく何か何でも宇宙を牛耳って何でも出来るって。 

それ、ただヒトラーを拡大したような・・・。 
実際はそうじゃないです。僕の知っているのは少なくともそういうものじゃない。  

観念悟り、自分が観念で悟ったと思ってる人達もいるだろうし・・・ 
悟りについて書かれた本などを見て、そういうとてつもない力が付いたとか多いと思うんですけど僕はそういうものが違うもんだと認識しています。 
それが悪いとかじゃなくてね。 

そういう世界が無い事も無いとは思うんですけど、そこに行ったから 
苦しみが無いとか、宇宙が解るとか、色んなことが解決していくっていうわけでもない。 
むしろ苦しみが逆にくっ付いてくると思いますね。 
トランスフォーメーション
M : 全然この運動に関係なくても、例えばヨガを教えてて半年位経ったら、
いきなり感情が抑えられなくなって前より楽に生きられるようになったとか。

それは教えとかそういうのじゃなくてエネルギー的に身体の動きだけでチェンジしていく。
実際、ヨガのポーズをやることによって心もチェンジしていくことを何度も見ているんですけど。

ここでもそういう動いたヨガを取り入れて。
僕がやっているのは特にナーディっていって、中国的に言うと経絡、まあエネルギーの通り道、72000本あるって言われてるんですけど、そのエネルギーの通りを良くして活性化する。

そういう目的と、エネルギーが感じられるように、心がチェンジしやすくなるように。


我々は心を変えようと努力してますけども、心は変えるものじゃなくて変容するものです。

いきなりチェンジするものだから幾ら矯正して四角い形にしよう、三角の形にしようとしてもならない。元々、三角の人は三角のまま、四角の人は四角のまま。

ところが何とか変えようとします。

例えば気が弱いのを気が強くなるとか、短気なのを短気じゃないようにとか。

でもそれは我慢したり矯正してるだけで本質は変わってない。

ただ我慢してるだけだから外側はニコニコしても内側に怒りがあります。

だからやっぱり苦しいですね、怒りがあるのは。自分が一番よくわかる。

でもこれが、怒りが来てもOKとか、或いは怒りが無い状態にいきなり変わります。

それは変容する。

徐々に犬をしつけるようにしていくんじゃなくって、
いきなり四角いのが丸くなったり、三角がいきなり丸くなったり。

それはいきなりチェンジが起こる。

チェンジが起きやすくする為に、やるっていう努力はあるんだけど、
この問題にしてる心自体を幾ら矯正しても、それは苦しみが増すばかり。

矯正するのは悪いわけじゃないんだけど、いつも苦しみが伴います。

自分ではこの中に嫉妬があるとちゃんとわかっておきながら、嫉妬が無いふりをしているだけだったり、嫉妬が無いと思い込んで、自分で無いと思い込んでいるだけだから実際はそのエネルギーがあるから何かの拍子にポッと出てきたら、またこうやって抑えるんで苦しいですよね。


Q : 苦しいですね、何でまたそうなるのでしょう?


M : それは一番最初には、あることが嫌だと思って、それが無いって。

立派な自分ていうかな、素晴らしい自分になろうと思うからです。

ところが、なろうって努力してるのに、やっぱり蓋を開けるとここに怒りや、ちっちゃなことでウジウジしちゃう自分がいたり、すぐに人を羨んで外側では
 『わぁ〜っ!』 ってやってんのに内側でさ、『くっそ〜!』 とかって思って。


Q : まったくそうですよね。


M : そう思いますよね。
だから何処までいっても無いふりか我慢してるだけだから。


Q : つらい。


M : うん。それはもうフィニッシュにしましょう、打ち止めにしましょうっていうこと。

ワンネスっていう言葉があるけど、ワンネスっていうのは、一番最初は、自分の中で分離してるでしょ。
その分離してる自分が一つになるっていうのがワンネス。
自分の中で分離してる嫌な自分とそれを抑えようとしてる自分と。


Q : 初めから自分が出てきちゃうんですけど。


M : あ、こうやって出てきちゃう?

それは抑えてるのが悪いわけじゃないですから、その抑えてる時に起こる苦しみが無くなればいいんだよね。抑えるのをやめなさいってわけじゃなくて、その抑えるのもいいんだけど・・・。


Q : はぁ、なるほど・・・。


M : うん、苦しみがそこに無いってことですね。


Q : そんな器用なことって出来るんですか?


M : そうだね、ここ(頭)で考えたら出来ないんだけど、我々は頭で考えて、このようになりたいって努力しますよね。でもならないでしょ?結局。

それは考えてなるようだったら、もっと世界が平和になってないとおかしい。
でも逆に毎年毎年、平和じゃない方向にいってますよね。

例えば戦国時代は世界中で戦争がありました。
でも戦国時代っていうのはせいぜい刀を持っていって目の前で殺す、
だから戦争といってもたかが知れてる。でも明治になると大量に死にますよね。

今の時代だったら第二次世界大戦とか1個の爆弾で何万人て死んじゃうわけですから。
そして今、地球上で紛争があちこちで何万人単位で死んでますよね。

そういう風に、考えて世界がよくなっていくんだったらもうとっくの昔によくなっていないとおかしい。

相変わらず我々は自分が嫌いで何とかしようと思って、そして何か素晴らしい自分になろうと思って成れないと通り魔みたいに20箇所とか刺して殺しちゃったり、自分の子供じゃない子供を橋の上から投げ捨てたり、どんどん悲惨な・・・。

だから考えには、限界があるってこと。ここの脳の中の考えは。
自力と他力
Q: 悟りって、いわゆるインドの教えで言うと神の恩寵でしかないわけじゃないですか。 
自力では絶対悟れないもんですか? 

   

M: それ、ちょっと難しいですけど、自力でも悟れないし他力でも悟れない。 

恩寵は待ってたらやってくるわけじゃないし、じゃあ自分で掴みにいったら受けられるかっていったらそういう訳じゃない。 


恩寵ってのは 碎啄同時 っていって内側と外側が何か整ったときに起こる。 

だから覚者がどんなに力があっても、内側が整わなければ、こちら側の準備が無いことには幾ら恩寵が来ても恩寵自体がわからない。 

だからこっち側はわかる能力が無いと。 

だからそうしたら、わかる能力を付けるほうから見たら自力でやる訳ですよね。 

でも恩寵が来ることでしか絶対にわかんないから、この自力だけじゃどうしようもないから。 
来るほうだけだったら他力になるわけですよね。 


だから浄土門という他力と、禅ていう自力がありますけども、 
どっちの人もちゃんと悟った人は 『自力でも他力でもありません』 

或いは 『自力と他力は同じです』 ってそういう書き方をしている。

文献に残っている中ではね。 

だからその前の人は、例えば浄土門の人は 『他力だ!』 って言って、 
禅門の人は 『自力だ!』 って言ってんだけども、 
本当にちゃんとそれがわかった人達はそんなこと言わない。 

『どっちでも同じです』って言うか、『どっちでもないです』 って言うか、 
何か他の力が働くとかそういうふうに必ず述べてますね。 


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補足1 

★碎啄同時 (そくたくどうじ または そつたくどうじ) 

「碎啄同時」とはこれは禅門においてよく用いられる語である。 
卵が貯化する(かえる)時機になると,卵の中の雛鳥は内側からコツコツと殻をつつく。 

これを「碎」といい,それと時を同じくして,親鳥が外からコツコツとつつくのを「啄」という。 

この碎と啄とによって殻が割れ,雛が飛び出すわけだが,要はそのタイミングが大事であり,両者の呼吸がぴったり合った時に「生命」が誕生するのである。 

師は弟子の修行がひとつ上の段階になったところを見てとって,すかさず上達のヒントを与えてやらねばならないし,また弟子は,師からいかに立派な機縁を与えてもらっても,それに応じ,それを生かす境地に至っていなければ,なんの役にも立たない。 

人生万事″碎啄同時の機″であって,これを求めて修行するのが,本来の道の在り方ではないだろうか。 

http://www.manzi.info/~nemo/sb/log/eid31.html  から拝借 

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補足2 

★妙好人(みょうこうにん)の言葉 


阿弥陀 『さいちよい』 

才市  『へ』 

阿弥陀 『たりきをきかせんかい』 

才市  『へ。たりき、じりきはありません。ただいただくばかり』 

   
鈴木大拙:著 妙好人(法蔵館)より
悟りはどこにあるのか?
M: 釈迦の言葉に「衆生 本来 仏なり」って言葉があります。

「衆生」っていうのは人々。

「仏」っていうのは死んだ人をいうんじゃなくて、悟ってますってこと。

人々は本来悟っている。

悟っているのに悟っていないがごとくに生きてる。 わかります?

何故、悟っているのに悟っていないがごとくに生きているかというと、
悟りっていうのはどこかにあって手に入れるもんだって思っている。

その限りは悟れない。

悟りは何処か棚の上にあって、その棚から取ってくるもんじゃないってこと。

そうすると、瞑想法ばっかりが気になります。

あの瞑想法、この瞑想法、あの修行法、この修行法。

滝に打たれればいいのか? 火渡りをすればいいのか? 

千日回峰をすればいいのか? 或いはインドに行けばいいのか?

あのアシュラム、このアシュラム、あの寺、この寺・・・。
 
これ、どこ行っても悟んないです。 そこにはない。

たとえ聖者のところへ行ってもないです。

そして必ず、悟ったら悟ったって(おのずから)わかります。

だから誰かに「あなたは悟りました」って言われて、
「あぁ、俺は悟ったんだ!!」なんて、こんな馬鹿な話ないです。

そりゃ、権威が欲しいだけ。「悟った!」っていう勲章が付いてくる。 

だから新しい勲章が。 これがまた悟れなくします。

じゃ、どこにあるかっていったら「衆生 本来 仏なり」だから、そ
したら我々ここの姿が既に悟っているってこと。

何かになるわけでもないし、何かをくっ付けるわけでもないし、
何かをとるわけでも何でもない。 このまんま。

ところが、このまんまじゃないっていう、、、
皆はこのまんまって言葉なんだけど、このまんまでいないわけ。

このまんまだっていうのに気が付いたのが悟りだから、このまんまじゃないんだよ。

さっき言ったように自分が概念で自分を見ている、「私はこんな人だ」って。

それ、このまんまじゃない。 考えで見ている。 

考えで見ない時にこのまんまがある。

だからもし瞑想で最上の方法があるとしたら、このまんまの状態。 
もし最高のもんがあるとしたら。

でも、このまんまになろうとしたらもう駄目だね。 

ここが矛盾(パラドックス)している。

このまんまっていうのは、あるがまんまでも空(くう)でも何でもいいんだけど。

だから、例えば手をこうやって上げたら
これが人差し指だって名前付けなくても指が上がったってわかるでしょ?

『彼の指が上がった、人差し指』なんて考えます? 

見たらわかる。 考えがあってもいいけど、考えなしにわかる。

だから最高の説法っていうのは人差し指を立てること。 

これが一番よくしゃべる。 沈黙っていうのは一番話してる。

だからあるがままを、自分がこうやって座っていたら、
これを見ていたら一番よく見て一番よく聞いている、本来は。

で、しゃべればしゃべるほど遠くなってゆく。

だから遠いところのものを引き寄せてくるにはしゃべらないとならない。 

で、しゃべるわけですけど。

一番はこうやって指を立てて、じっと見ているっていうのがいいわけ。 

何の考えがなくともちゃんと人差し指だってわかるでしょ。

説明するのに「人差し指」って言ってるだけで、
実際はこの指だって『パッ』と。(実際に指を示す)

それは誰がどのように何故わかるんだろう? 

わかるっていうのはどういうことなんだろう?

見るっていうのは今なのか? 見るってどういうことなのか? 

或いは見てるのは誰なのか?

もし私が見ているっていうのだったら、その「私が見ている」の「私」って何だろう? 

その時の「私」っていうのは。

で、考えるっていうのは、考えるんじゃなくて全身で考える。

脳で考えるんじゃなくて全身で考える。

そうしたら一瞬で悟ります。 

何故なら悟っているから。 

その今あるがままが、あるがままで他のあるがままなんてない。

今あるがまま。 

「今」っていうのは「ここ」にしかなくて、「ここ」っていうのもここにしかない。

あそこにあるこことか、あっちにある今っていうのはないわけ。 

ここに今ある。

見るっていうのも本当は全身で見ているし、聞くっていうのも本当は全身で聞いている。



Aさん・・・全身で見る感覚というのは?


全身で見る感覚、、、そうだね、他にいいようがあるとしたら「見られるものだけがある」。

まあ言い方は、、、表現だね。 そういう風に出来るんだけど。

それが僕の知っている中で一番伝えられるもの。

じゃ、そういう風に瞑想してみましょう。

まず、「考えをここに置くんだ」と、自分の考えはここに。
(自分の脇に考えを置くイメージ)

そして「今」っていうのは、今の瞬間。

「ここ」っていうのは、今ここに居るわけじゃないですか。

で、今ここにいて何か問題のある人います? 

今ここで問題がある、たぶんないよね?

今ここにいて問題がありますっていう時には、「将来、年金がもらえないと困るなぁ」って
もし言ったとしたら、今ここでは関係がないわけ。

どこか遠い将来の事を考えて言っても、今ここにはない。

だから我々はこういう様に居て、今ここに居て何の問題もない。

人生っていうのは、今ここ・今ここ・今ここっ・・・て続いていく。

だからここに問題がないって事は、どこに行っても問題がない。

たとえ千年を生きたって、今ここ・今ここ、今って場所に居て千年だから。

今ここに問題がなければ問題はない。

本当かな? じゃあ、外に出たら通り魔が居て「ピッ!」と手を斬られたとする。

手を斬られた瞬間って今にある。 

で、斬られたら痛えだけだから問題はない。

で、斬られて救急車で運ばれる。

救急車、乗ってる時は「痛え、痛え!」って痛えだけで別に問題はない。 

で、医者に行ったら縫合する。

痛いって言って睡眠薬飲んで、朝起きて痛みがあっても問題はない。 その時は。

ところが、問題は「これが治んなかったら斬った奴をゆるすもんか!」と、
今ここにいなくなっちゃったら問題が起こる。

で、どんな事があっても、手がなくなってもね、
一週間して手がなくなったとしてもなくなった瞬間には問題もない。

で、数秒後に痛みが出来て。 で、痛いときには・・・

たぶんね、「腕を切って痛い」って考えられないくらい痛い。 

全身どこが痛いかわかんないぐらい痛みがある。

さっき彼が言ってたように見るものしかなくなっちゃう。 

痛みしかなくなっちゃう。 これ全然問題がない。 痛み。

だから借金取りが来て苦しいって、借金取りが来て「どうしよう!?」って考えてたら、
借金取りが来て「どうしよう!?」っていうのしかないんだから全然問題がない。

必ずそういう時に叡智が働く。 

だから人生っていうのは問題はないんです。

課題があるだけ。 課題は来る。

救急車に乗るとか、痛み止めの注射を打つとか、そりゃ課題だからただ体験していくだけ。

問題が来たって思うから大変なわけ。

課題がやってきただけなら課題だから「この課題がやって来たからやっていこう」と。

問題がやって来たと思うと、「何でこんな問題が私のところにやってきちゃうの!?」と思うわけ。

人生には課題はあるけど問題はない。 

「今ここ」を生きてると課題はやって来ます。

去年、面白い事があったんだ。 

課題がやって来ました。(片方の肩を痛めた) 痛い時は痛い、もうしようがない。

「これは問題だ、ヨガを教えるのに五十肩になって問題だ!」と、
もし俺が考えるんだったらすごい問題だよね。

「どうやって理屈つけよう?」とか「どうやって誤魔化そうか?」、
「どうやって治そう? 治んなかったら俺ヨガ辞めるしかない」
とか何か色々考えるかもしれない。

でも課題がやって来ただけだから、
「ヨガやってても五十肩になります、手が上がりません。皆さんは上げて下さい。
私は片方だけ上げます」って。 それで平気なわけ。

で、生徒達も別に「あ、ヨガやっててもなるんですね」って。 「うん、そう」って。
なら、もう問題がないわけ。 そういう風に本当は問題がない。

問題はさっき言ったように概念が作る。

〜 瞑想 〜
縄のたとえ
M: ・・・何でも決め付けないっていう事ですね。


これは瞑想とか周辺の事だけじゃなくて、生きていく上でも
余りにも決め付けるから我々は苦しむ。


自分で「決め付け」という縄で縛っておきながら、
「誰だ、縛ったのは?苦しい、苦しい」って言ってるのもね・・・。


この縄をチョキンと切ってしまえば、もっと自在になれるんだよね。


必要な時だけその縄の流れで、苦しくなったらチョキンと切って、
放っておけばそれで何の問題もない。


それで、たまたまひどい縄で「正しい縄」っていうのがね、
「この縄を持っていたらすごいハッピーになるんだ」っていう縄だよね。


その縄はその時はいいんだけど、1年後にはその縄では不幸なのに、
まだ持ってるんだよね。


「1年前はハッピーだったから・・・」ってね。


だから、ハッピーだったとか、正しいって縄ほどおっかないものはないよね。


1年後に合わないんだったら、次の縄を使わなくちゃいけない。


悪いならば悪いでほどいて置いておく。
不要なのに持っているということは必要ない。


このへんに我々が人生で同じ事を繰り返す事について何かヒントがあるよね。
同じパターンを繰り返していってしまう。


何かを求めて得る寸前には壊してしまう。
また次の何かを求めて・・・。


最初はそれが楽しいんだけれど、1カ月やってるとつまんなくなってくる。


それで「つまんない、つまんない」って言って、やっとやめたと思ったら
また楽しいと思えるものを見つけて、また同じパターンを繰り返していく。


それは何かずっと持っているからだよね。


同じ縄を持って新しい所へ行っても、やっぱりその縄に縛られている。


だから、それは他の所へ行ったらほどいて他の縄を使わなくちゃいけない。



Q: 「それはずっと持ってるもんですか?」



M: 気付くまでは持ってるから駄目だよね。


気が付けば、それじゃないのを使えるかもしれない。


我々はいらない苦しみを自ら得ている・・・。


そういう人に言っても「捨てられません!」って怒られちゃうからなかなか言えないけど。
いますよね、「この縄はいいんです!」みたいなね。
無用の用
・・・我々は、有用が素晴らしくて無用は素晴らしくないって教育されているはずなんだよね。

だから有用ばっかり追いかけるのさ。

でも実際はそこにあるペットボトルだってその中がカラじゃなければ物が入んないでしょ。
だから無用の部分がない限りは、この世の中で役に立たない。

むしろ無用の部分が多くて、有用な部分は無用の中から生まれてんのに我々の人生って有用な部分だけを抽出してそれだけで自分を作ろうって、そういう風に教育されてると思いません?
でも無用な部分が必要ですよね?

この空白の部分が大切だってことに気が付かないから、みんな有用な部分ばっかり追いかけるんだよ。

無力な自分とか無能な自分とかがすごい大切。

人生の中でも何もしない自分とか何も出来ない自分とか何もしない時間とか何もやらない時間とかが大切なはずなんだよ。

それが証拠にさ、1日の1/3は、まあ睡眠時間8時間としたら。8時間は何もしてないだろ。無用な時間が8時間あるから8時間働けるわけだよ。その他にメシ食ったりウンチするのに8時間使ってるわけだよね。


・・・だから我々、有用であったり有益だってことを追い求め過ぎだよね。

それが悪いわけじゃないけど、有用だからそりゃ悪いわけじゃないけど、でもそればっかりで満たそうってところに苦しみがある。

無用とか出来ないとか才能がないっていうのとか無力、無能はとても大切である。

そういう隙間がないと窮屈でしょうがないんですよ。

人生って苦しむために生まれてきたわけじゃない。楽しんで喜ぶために生まれてきたんでしょ。

で、その無用の部分がなければそういうことは起きない。

だから無用の有用さ、無用の有用さみたいなのをちょっと感じると空白のときや何もしないとき、言葉を換えれば何も出来ない、そういう自分がいるから初めて何かが出来る。


・・・昔の日本人はさ。僕が若い頃に住み込みで働いているときに、若い人は仕事が始まると休まないでやるんだよ。

ところがさ、先輩は・・・先輩っていっても30年くらい上の人なんだけど。45、50くらいの人達で。休むんだよね、仕事の合間に。

シャクに触ってさ、何で休むんだ!?って。こんなに仕事たまってんのに!って。

で、やってたんだけどやってくうちによーく見ると、長い目で見るとすっごい能率悪いんだよね。一生懸命やってる俺の方が。

で、休みながらやってる奴のほうがさ、能率よくあがってんのさ。その1日は俺の方が勝ってんだよ、でも半年とか1年の仕事量みたら(休みを入れる先輩たちは)コンスタントにあげてくんだよね。

で、こっちはいくときはバーッといくんでそのうちデ〜ッとなったり。仕事の間は張り切ってるんだけど、家帰ったら何も出来ないとか。

でも彼らはさ、休んで能率よくやるからさ、いっつもマイペースなんだけどいっつもある一定量を押し上げていく。

それに気が付いたときに、あっ休みは必要なんだと。

それから10時と15時の休みとちゃんと休むようにしました。それも30分以上(笑)。昼休みも15分以上切り上げてやってたんだけど、ちゃんと休むようにして。

休みって必要なんだ。無用って部分が必要なんだ。我々には。

仕事の中で休むって必要ですよ。能率上がんないし。

ま、そんな話してるとキリがないんで(今日のところはコレで終了)。


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